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せつない桜 [GBA]


いくつかの説があるようですが、啓翁桜は支那桜桃と彼岸桜を交配して作られたと言われています。もともとは3月から4月に咲くものが、促成栽培されて1月からお花屋さんの店先に並び、春の気分を感じさせてくれる花です。なのに私はこの桜を見るたび、せつない気持ちになります。

春の訪れの遅かった年の、3月の朝のことでした。その日は仕事帰りに病院へ、ある人のお見舞いに行くつもりでいたのですが、家に活けてあった啓翁桜がふと目に留まり、これを束ねて持っていこうと思いつきました。花の好きな人でしたし、まだまだソメイヨシノのつぼみも堅い頃で、桜の花を見たらきっと喜ぶと思ったのです。

でも結局私はそうしませんでした。3月とはいえまだ寒さは厳しく、一日じゅう雨という予報が出ていましたし、会社に持っていったところで夕方まで置いておける場所の当てもなく、それに一度家で活けた花を持っていくなんて失礼にあたるような気もして、ついためらってしまったのです。

病室を訪ねた私は、病人が消耗してしまうので、ただ黙って枕元で手を握っていました。そして涙を流し、洟をすすりながらその人をじっと見つめていました。「よく来たね」と言われたような気がしますが、記憶はおぼろです。

そのときまでの私は、じつは、その人の死をすでに受け入れているつもりでいました。人はいずれ死ぬのがさだめだし、それを受け入れている自分は潔いのだと、自惚れていたのです。いま思うとそれは、避けがたい死がやってくることを、事前に覚悟しておくことで、やがて来る悲しみを緩和しようとしていたのだと思います。

でも冷たい雨が、傘の柄を握る手を濡らすほど激しく降る中を帰りながら、それまでとは逆に私は「もしかして治るのかもしれない」と思いはじめました。それは「治る可能性があってほしい、治ってほしい」と初めて切実に希ったからだったのです。

次の日、その人は亡くなりました。

それ以来啓翁桜を見るたび、「あのとき持っていけばよかった」という思いが胸を去来します。激しく後悔しているとか、そんなことではないんです。その人が桜を心待ちにしていたかどうかもわからないし、持っていったこところでなにも変わらなかったかもしれない。ただ毎年花を見るごとに、持っていけば喜んでくれたに違いないのに、そうして喜ばせてあげればよかったのにと、そう思う、それだけです。それを後悔という言葉で呼びたくないんです。

10年ぶりに勇気を出して埃をかぶったその人の遺稿集を繰ってみると、桜について綴られた一文があり、思わず頬がゆるみました。一度読んだはずなのにすっかり忘れていたことでした。

今年は啓翁桜を持って、早めにお墓参りに行くつもりです。そうすることできっと、新しい一歩が踏みだせる気がするのです。でも、このせつない気持ちはこのまま忘れません。


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Baldhead1010

そのなくなった方は、とうの昔にあなたの優しい心根をご存じで、あちらでほほえんでいるじゃありませんか?
by Baldhead1010 (2006-01-31 07:49) 

albireo

美しい写真と、それに相応しい美しい文章ですね!
切ない思いを胸に抱いて、でもきっと、歩き出せますね。
by albireo (2006-01-31 20:54) 

sakamono

キレイな写真が文章と相俟って、なんだか、しんみりしてしまいます。お墓参りに行くことで、きっと何かが変わると思います。
そうやって生きていくのでは、なかろうかと...
by sakamono (2006-01-31 23:08) 

はてみ

>Baldheadさん、albireoさん&sakamonoさん
nice! とコメントを、どうもありがとうございました(^^)
直しを入れた第2稿をアップして、なんとか応募に間に合いました。
いつか書こうと思いつつ10年も、いつのまにか経っていましたので、
いいきっかけがあってよかったと思っています。
by はてみ (2006-02-01 00:12) 

penpen

切ない思いも大切な思い出なのですね。10年後の桜の遺稿集にホッとしました。お写真からもお気持ちが伝わってくるようです。
by penpen (2006-02-05 21:36) 

はてみ

>penpenさん
ありがとうございます。
たぶんもうなにもかも大丈夫なんだと思います。
うん、大切な思い出です。
by はてみ (2006-02-05 22:03) 

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